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金井山城
史跡第215号で長さ18,845m、城壁の高さ1.5〜3m、
総面積は約8.2㎢で、韓国国内で最も規模が大きい山城である。
- 文化財指定番号と指定日 : 史跡215号/1971年02月09日
- 規模 : 長さ18,845m / 城壁の高さ : 1.5m~3m / 城内の総面積は約 8.213k㎡ 程度
金井山城の名所
金井山城には城門4つと望樓4つがある。
名所 案内
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金井山城の東門
- 文化財指定番号 : 史跡第215号
- 所在地 : 釜山広域市金井区山41-2
金井山の主稜線の標高415mの峠に位置し、展望が非常に優れており、住民が最も行きやすく金井山城で一番人気のある城門として位置づけられている。
『金井山城復設碑』の記録によると、『1807年(純祖7年)の晩秋に土木工事をスタートした一ヶ月で東門が完成した。』という。東門は虹霓式門(ホンイェシッムン)に正面3間、側面2間の八作屋根の単層門であり、門の幅は300cm、虹霓の高さは340cmである。
東萊府使(東萊府の行政統治の責任者)の鄭顯德(ジョン・ヒョンドク1867〜1874)が東門と西門の再建に力を入れていた時の話が伝えられている。
彼は二つの門を非常に完璧に作るため、有名な石工を探し、師弟関係である二人の石工を見つけ、師には東門を、弟子には西門を作らせた。 東門を担当した師は野心と欲が多く、壮大にだけ作ろうとしたが、西門を担当した弟子は 技術を重視し、精巧な美しさを活かして作り、師より先に完成したと言われている。すると師は弟子の優れた技術に嫉妬した。その当時の人はその師より弟子の技術を称賛した。しかし、この師弟は、東門と西門の工事が終わった後、力を合わせて密陽の永南樓の工事をしたという話が伝わっている。
金井山城の西門
- 文化財指定番号 : 史跡第215号
- 所在地 : 釜山広域市金井区金城洞133
金井山城の4大門の中で唯一渓谷に位置している。西門の譙樓はハングル「ㄷ」の字形に造成された城の姿は、堅牢で美しく建てられた。西門は洛東江と亀浦、金海方面に往来した門である。
西門は虹霓式門に正面3間、側面2間の八作屋根の単層門樓建物であり、左右に幅4m、長さ5m、高さ5m規模の敵臺が復元されている。西門の北側にある大川川の水門は橋梁式虹霓型で幅が約2.5m、高さ約3mの規模の水口(幅約230cm)3つのアーチ形を成している。この水門は金井山城で唯一のもので、天然の要塞である峡谷に西門と水門を作った先祖たちの知恵を感じることができる。
東萊府使(東萊府で発生するすべての行政上の統治においての責任者)のチョン・ヒョン(鄭顯德、1867〜1874)が東門と西門の再建に力を入れていたときの話が伝われている。
府使は二つの門を非常に完璧に作るため、有名な石工を探し、師弟関係である二人の石工を見つけ、師には東門を、弟子には西門を作らせた。東門を担当した師は野慾と欲が多く、壮大にだけ作ろうとしたが、西門を担当した弟子は 技術を重視し、精巧な美しさを活かして作り、師より先に完成したと言われている。そうなると師は弟子の優れた技術に嫉妬をやき、その当時の人はその師を悔やみ、弟子の技術を称賛した。しかし、この師弟は、東門と西門の工事が終わった後、力を合わせて密陽の永南樓の工事をしたという話が伝わっている。
金井山城の南門
- 文化財指定番号 : 史跡第215号
- 所在地
: 釜山広域市金井区金城洞山69
南門から北に姑堂峰が正面に見え、南には白楊山が見える。白楊山と南門の間には萬德丘と萬德洞がある。南門は平居式門で門の幅は290㎝、高さ280㎝であり、建物の幅は480㎝である。門の上部には、正面3間、側面2間で装飾された八作屋根の単層門である。南門の上部の周辺には、2009年には姫垣が復元され、壮大さが感じられる。
金井山城の北門
- 文化財指定番号 : 史跡第215号
- 所在地 : 釜山広域市金井区金城洞山1-1
梵魚寺から西に1.6㎞、姑堂峰から南に流れる主稜線が元暁峰に向かって再び上がる場所にある。
金井山城4門のうち北門が最も大きく粗い。この門は、アーチ型の装飾もなく、規模も他の城門に比べ小さい。建物の上部には、正面1間、側面1間に装飾された八作屋根の単層門であり、門の幅は、正面250cmで側面は350cmである。
城門の広場である洗心亭一帯は元暁(ウォンヒョ)大師が華厳経を説破した場所であることから「華厳原(ファオムボル)」と呼ばれ、ここでは金井城を守るための梵魚寺、国淸寺、海月寺等の僧侶を訓練させ、僧兵養成を行った僧兵訓練場であった。
金井山城第1望楼
第1望楼は上鷄峰の北側から約300m地点である標高650mの生気峰(サンギボン)の頂上にあり、正面1間、側面2間の規模の八方屋根に復元されていたが、台風ルサ(2002年8月31日〜9月1日 台風)により滅失され基壇と、礎石、高塀等のみが残存している。
金井山城第2望楼
第2望楼は東門の南側から約2.5㎞、南門の東側の約400m地点の標高545mの東帝峰(トンジェボン)にあり、靴の形から飛び出した部分に高く塀を築き、正面2間、側面1間の切妻屋根の望楼に復元されたものである。
金井山城第3望楼
第3望楼は正面2間、側面1間の切妻屋根で東門から1㎞地点に削って立てたような絶壁岩の上にあり、周辺に蝶岩(ナビバウィ)、扇岩(ブチェバウィ)等が千亀萬鼈(千匹の亀と1万匹のスッポン)と言われる形をした奇岩と石が調和を成し、とても美しい。
金井山城第4望楼
第4望楼は、中城と合流する北門の南側1.5㎞海抜620mの稜線上に位置する。高く塀を積み上げ、正面2間、側面1間の切妻屋根の望楼に復元されており、ここは、義湘峰のすぐ南に外城の東側の城と中城の東端が出会う三角点でもある。
金井山城の將臺
- 文化財指定番号 : 史跡第215号
- 所在地 : 釜山広域市金井区金城洞山5-5
將臺(チャンデ)とは戦闘の際、指揮が容易な地点に作った大将が指揮する所をいい、金井山城の將臺は金井山城の中央にそびえた丘陵の頂上(標高475m)に山城全体を見渡せる場所に建てられた。
建物は正面3間、側面2間の八方屋根形で壁がなく、円柱が並んでおり、四方を見回すことができるようになっている.
1703年(粛宗29年)建立されたもので、『東來俯誌』に記録されているが、『輿地圖(18世紀末の地図)』、『釜山古地圖(1900年度頃作られたと推定される地図)』等に將臺が描かれていたことから、19世紀後半まであったものと推定される。
中央文化財委員の考証手続きを経て、2009年5月25日金井区民の日に復元された。
位置
北門基準-梵魚寺で北門に登る登山道に沿った約1.6㎞地点に位置する。(老圃洞行き1号線、地下鉄は梵魚寺駅に下車した後、循環バス90番を利用)
由来
金井山にいつから城が築かれたかは文献上では不明だが、南海岸と洛東江下流に倭寇の侵入が酷かったという事実から、新羅の時から既に城のがあったという見方もあるが定かでない。
現存する山城は、慶尙道觀察使(慶尙道の長官)の趙泰東(チョ・テドン)の提案により粛宗29年(1703)に東萊府使の朴泰恒(パク・テハン)、李壄(イ・ヤ)が城を築き、粛宗33年(1707)に東萊府使の韓配夏(ハン・ベハ)が中城を新しく築いた。純祖8年(1808) 東萊府使の吳翰源(オ・ハンウォン)が壊れてなくなった城を築き直した。
また、日本統治の暗黒時代に日本人によって毀損、荒らされた個所が1971年に国家指定史跡に指定され、2年に渡り東・西・南・北門を復元した。現在も復元事業が着実に進んでいる。